対談:向井山朋子×宮島達男「すべてはピアノの前のできごととして」
2012年04月13日(Fri)
対談採録:2011年10月16日[日]13:30→15:30/東北復興支援機構
Photography by Takenori Miyamoto + Hiromi Seno
宮島 まず『夜想曲』のはじまりについてお聞きします。3.11で被災した泥だらけのピアノをギャラリーに運び入れるという、ダイレクトな表現に至った経緯はどのようなものだったのでしょうか。
向井山 地震があった3月11日に、この大学で『wasted』の山形巡回を準備してくださっていた宮本さんとスカイプで会議をしたのです。日本時間で11日の午前0時を過ぎた頃だったと思うのですが、回線を切ってから、最後にチャットでやりとりしたのを覚えています。宮本さんは「こちらはまだ雪ですが、もうすぐ春です」とおっしゃって、「でも絶対くるって分かっているものを待つのは、いいですよね」と。そんなちょっとした交信をしたのです。でもその後、戻ってこないものがたくさんある日になってしまった。
東日本大震災のことは、とにかくこちらは海外ですから、ニュースを介しての情報がないし、東北の友人たちとは連絡が取れなかったし、日本がどうなっているのかまったく分からなくて。オランダとは6〜7時間の時差がありますから、眠る前に「朝起きたら日本がなくなっているのではないか」と本気で思いました。すごく不安でした。
それから、オランダでも放映されたのですが、名取市上空から撮られた津波の映像にショックを受けました。あれがもしハリウッド映画ならほんとうに3流で、「実際はこんなはずないじゃない」って画面に向かって怒りたくなるような下手な映像でした。黒い泥が同じテンポで、ずうーっと街を埋め尽くしていく。自宅のテレビに映されたその映像が、唯一、3月11日に東北で起こったことを冷徹に伝えていたのですけれど、私にはそれはあまりに平坦すぎて、かえってリアリティとして掴めなかったのです。
幾日か過ぎて、「そういえば、秋に東北で『wasted』の最後の巡回展だった」と思い出したけれど、すぐにそれは実現しないだろうと、完全に諦めていましたね。そうしたら宮本さんとやっと回線がつながって、「向井山さん、やっぱり東北にきてください。何か震災に関わる新作をつくりませんか」とおっしゃった。でもそれはとても難しいことで、すぐに答えの出るような話ではなかったので、彼と定期的に対話を続けていったのです。
それで、多分あれは4月に入ったばかりだったのかな、宮本さんから「今日、石巻で路上に転がっている泥まみれのピアノを何台も見た」と聞きました。石巻市の商店街に楽器店があって、そこのピアノがすべて津波に呑まれて道路に投げ出されていたと。「ああ、そうですか…」って、私は何も言葉は出なかったのですが、見てもいないその光景が脳裏に焼きついてしまって、数日後に「そのピアノ、譲っていただけるように手配してほしい」とメールしていました。
私は5歳からピアノを弾いています。日本では「ピアノの前に座る」っていいますよね。英語だと「behind」。オランダ語も「achter」で「後ろ」ですけれど。とにかく私はピアノの前に5歳からずっといるのですよ。
宮島 「ピアノの前に5歳からいる」。すごい表現ですね。
向井山 私はピアノの前で育って、自分を見失ったときも、音大でアイデンティティが崩れたときも、いつもそこだった。原因の多くも解決も、大抵はそこに在った。いつもピアノの前で「自分にできること、できないこと」について考えてきました。グランドピアノは400kgから500kgあり、物質としての頑丈さ重厚さはもちろん、場合によっては半永久的に保つものだし、楽器としての形状も200年前から変わっていない。
私にとって絶対的な存在ともいえるグランドピアノが津波に押し流されて、汚泥にまみれて、他の瓦礫とともに路上に置き去りにされている。「とにかく見てみたい」と強く思いました。そんなふうにピアノが滅茶滅茶になるのを私は見たことがない。作品になるかどうかはどうでもよかったのです。
宮島 震災直後、瓦礫の扱い方については強い自粛ムードがあったので、被災したピアノを移設するというプランを聞いたときは耳を疑いました。そんなセンセーショナルな表現が、このタイミングの東北で果たして許されるのだろうか、と。たとえそれがアート表現だとしても、傷ついた人々の感情をさらに損なう可能性がある作品に対しては、表現者自身が、どれだけの責任と当事者意識と世界観をもっているのかが問われると思います。
ダミアン・ハーストが、豚や牛を真2つに切ってホルマリン漬けにした有名な作品がありますね。内部まで完璧にスライスしてあって、解剖模型のように断面から内臓が見えるのです。とても話題になった作品です。ご存知の通り、アートにはショッキング・ストライクな表現がセンセーションを起こすことがしばしばあります。しかし僕が作品をつくるとき、いつも心がけているのは、「自分のなかで本当にリアルか」ということで、それは必ずしもセンセーショナルな表現を選ぶこととは違います。
災害廃棄物のなかから、被災者が所有していたピアノをひっぱり出して、安全な山形にもってきて展示をする。これはセンセーショナルな行為なのかどうか、実際に展示を見るまで判断がつかなかったのですが、いま、2台のピアノが佇んでいるのを見て、そして向井山さんからお話を伺って、腑に落ちた部分があります。あなたにとって「ピアノの前」とは、世界のすべてなのですね。腫れものに触るように被災した事象を扱うのではなくて、ダイレクトな表現行為をすることによって、震災で揺らいだ「世界(=ピアノの前)」が再構築される。あるいはそのきっかけが示されるのではないかと。
ナム・ジュン・パイクやヨーゼフ・ボイスはピアノを破壊している。僕はこれまで何度も、アーティストによって破壊されたピアノを見たことがあります。でもこれらのピアノは、それとは佇まいが決定的に違う。それは、向井山さんが5歳のときからピアノの前で生きてきたからなのでしょうね。引き受けている。多分ピアノそのものではなく、向井山さんとピアノとの関係に「本当のリアル」があるのじゃあないかなって思いました。
向井山 宮島さんとお話しして、このプロジェクトがセンセーションを狙ったものだと勘違いなさる方もいるかもしれないってことを、はじめて自覚しました。
私は自分のことをフィジカルな演奏家だと思っています。20世紀の音楽をよく弾くのですが、肉体の限界を試すような作品や、楽器を最大限に使った奏法がたくさん生み出された時代だから、演奏家もどんどんフィジカルになっていくのです。ピアノは88鍵、指は10本と決まっているけれど、身体的、物質的なボーダーを常に押している感はあります。
ピアノと一心同体になるのとは、ちょっとニュアンスが違っていて、ピアノを媒介にして「ここまでがカラダの限界」と思っていたレヴェルの、もっと先に行けたり、遠くに行けたり、大きくなれたりするのですね。ですからこのように弦が切れたりピアノの脚がもぎ取られたりするのは…引き受けられはないけれど、「わがごと」ですよね。

宮島 センセーショナルな置き方ではないですね。僕はさっき、アーティストとしての「責任と世界観が問われる」といいましたが、向井山さんの場合は「確信がある」というニュアンスがちかいかもしれない。
震災から半年間、アーティストや学生たちは、ものすごく辛い時期を過ごしています。特に想像力が豊かな人たちなので、「自分には何にもできない」という無力感に苛まれて制作どころではなくなっている。メディアの情報だけで被災しているのです。その一方で、週末ごとに石巻市や女川町でボランティアをしている学生グループもあり、彼らは「アートにできることは」を問うことよりまず身体を動かして、自分の無力感にケリをつけようとしている。いまの向井山さんのお話を聞いていて、このような巨大災害が起こったとき、怯んで活動を停止するのではなくて、むしろリスクをとってでも、フィジカルに痛みに対峙する態度が必要なのかもしれないと思いましたね。
ところで身体といえば、なぜ片方のピアノに口紅が塗ってあるのでしょうか。どのような意図があるのですか。
向井山 こちらのピアノ(石巻市立湊小学校のグランドピアノ)は、もう寝たままでよいかと思っています。起こしたくないのです。あちらのピアノ(石巻市立湊第2小学校のグランドピアノ)は、まだ起きているのかどうか…分からないけれども、ちょっとだけでも目が開くとよいなと思って。
8月にオランダからようやく帰国できて、友人たちの案内で南三陸町と石巻に入りました。仮設住宅や避難所でお話を聞いていたときに、お化粧の話が出たのです。避難所に身を寄せていた20歳くらいの女の子が、何週間もお化粧もせず、髪もちゃんとお手入れできず、でも仙台に行く用事があって、バスを乗り継いで行った。そうしたら自分はすっぴんなのに、仙台ではみんな普通にお化粧して街を颯爽と歩いている。彼女は凄くびっくりして慌てて身だしなみを整えた。でも石巻の避難所に帰ったらやっぱり誰もお化粧なんかしていなくて…居心地が悪くてすぐに洗い落としたという話です。
年頃の女性の、些細な心の揺れなのかもしれないけれど、そうしたちょっとしたズレが日常の回復のキーになっているのだと思いました。お話を聞いていて、「あぁ、口紅ってそれだけ大事なのだな」と思って、それでこのピアノにも色をつけてあげたいと思ったのです。ピアノって、大きな口みたいなものですから。
宮島 口紅は『wasted』の血を連想させますね。男性にはとてもエロティックなメタファーでもある。性と生きることは強く結び付いていますから、ピアノの内部で口紅が渦巻いているテクスチャーには、とてもエロティックな感覚を覚えます。
向井山 そうですか。よかった。少し目が覚めてきたのかもしれないですね。
宮島 もうひとつ聞きたいのは、音楽、つまり時間軸に沿って変化していく表現ですよね。向井山さんは『wasted』で絹のドレスと血液、今回の『夜想曲』ではピアノと口紅など、インパクトのある物質でインスタレーションを制作していますが、音楽と物質、それぞれが観客に与える感覚の差異については、どのような考えをもっているのでしょうか。
向井山 音楽祭やコンサートで、演奏家たちが休憩のために舞台から引っ込んで楽屋に入ると、「今日のお客さんはいいよね」という話に必ずなるのですよ。「反応があったかい」とか「よく集中してくれている」とかね。どこの国でもその話になるのです。エネルギーが高揚すると、見えないけれど確実に舞台と観客の間には何かが起こっていて、それは誰もが感じられる、共有できるのです。
宮島 面白いですよね。コンサートのときに、共時的にある種の芸術的振動を共有している感覚。それはアート作品によって引き起こされることもある。僕はすごい作品に出会ったときには、空間が歪むのです。作品がトリガーになっていて、自分のなかの何かを揺さぶるのだと。向井山さん自身がパフォーマンスしていなくても、向井山さんのある種のパフォームが作品に定着されていて、ヴァイブレーションとして伝わっていくのですね。
向井山 そう思います。インスタレーションでは私は常にその場所にいられない。シンプルですが、それが大きな違いだし、面白いところですね。私は作品をつくっていても、音を放っていても、観客がそれらと対峙する経験が、同時に私自身の経験と重なっていくような共有感覚を大事にしています。
宮島 白鷹町でおこなわれた『夜想曲』のコンサートは、残念ながら僕は聴けなかったけれど、プログラムには石巻市立湊小学校の校歌も組み込まれたそうですね。3.11のような人類史に残る巨大災害に、芸術表現はどのように対峙し得るのか、また夥しい「他者の死」の現実の、ダイレクトな引用は許されるのか、そのあたりをもう少し掘り下げていきたいと思います。
僕はドイツのレックリングハウゼンで一昨年、『Counter Coal』という作品を発表しました。この街はかつて炭鉱で栄えていました。当時のヨーロッパには石炭運搬ための鉄道網が全土に張り巡らされていました。石炭は当時の主な産業エネルギーで、採掘の中心地だったルール地方から各地へひろがる鉄道は、第2次大戦中にナチスによって、ユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所へ運ぶために使われました。
もうひとつの作品『time train to holocaust』では、鉄道模型が美術館内を走りまわっていて、貨車に積まれ明滅するガジェット・カウンターはアウシュヴィッツという死に向かう人々の命を表現しています。極めてダイレクトに、ホロコーストを表現しているのですね。ところが、この美術館の館長から、「作品は素晴らしい。けれども、作品のタイトル『time train to holocaust』は変えてくれないか」といわれました。「私はホロコーストはもうたくさんだ。ドイツはナチスという負の歴史を60年も背負ってきた。もういいじゃないか。しかも君は日本人だろう」とね。

向井山 館長はドイツ人だったのですか?
宮島 そうです。65歳の男性でした。僕には広島をテーマにした作品もあるし、原爆を扱った『柿の木プロジェクト』も続けている。原爆やホロコーストはドイツだけでなく人類全体の悲劇で、すなわち日本人の僕にとっても重要な問題です。たった60年で戦争の歴史や記憶は遠のいているから、僕はその館長に、「あなたたち老人にではなく、若い人たちにこそ、この作品について考えてほしいのだ」と持論を曲げなかったのです。結局、そのままでオープニングを迎えたのですけれど、ベルリンからきた別の美術館の館長が握手を求めてくれて、「よくいってくれた。ドイツでは若い人たちにホロコーストの話は一種のタブーになってしまっている。残念なことだ」と。
向井山 私の亡くなった夫はユダヤ人でした。よく家系の死因ってあるじゃないですか。おたくの家族は心臓病が多いので気をつけた方がよいとか。彼の親族とその話になったとき、「虐殺ですね、うちは」って。ユダヤ人の家系図にはたいていアウシュヴィッツの空白を抱えている。本当にすさまじい数の人々がヨーロッパで殺されたのですね。でもそれは彼の家族の歴史だから、私は亡くなった人々について何も知らない。私にとってユダヤ人の夫の家系図上の死は平坦なのです。
日本人の宮島さんがホロコーストというタブーに言及する作品をドイツで考えて、美術館館長に批判されながら表現していくことと、私のように海外で暮らしている人間が、放射能の心配も隣人の痛みも全く背負わないで震災のことを扱うのは、同じですよね。
宮島 さきほどのセンセーションの問題に戻ってしまうかもしれませんが、芸術や言論というのは、安穏とした日常に、「えっ!」と驚くような問題提起を差し込むことが役割みたいなところがあるじゃないですか。でも僕はドイツでの経験から、重い歴史や他者の死など、ナイーブなモチーフを扱う際には、芸術家にもマナーや倫理が求められると思う。芸術がモラルハザードを起こしてはならない。向井山さんは『夜想曲』がこうしてオープンしたいま、芸術表現におけるモラルやタブーについてどう考えていますか。
向井山 震災があって2週間くらいは、オランダでも新聞をはじめ主要メディアは日本の話でもちきりでした。でもさらに2週間くらい経つと、世界の時勢はすっかり変わっていて、イランの核問題がどうだとか、ニューヨークで若者の騒乱がおこっているとか、それこそ次々にセンセーショナルなニュースが登場してくるから、日本に対する心配や同情は急速に薄まっていきました。私の実家は和歌山の新宮市で、ついこの間、母の暮らしている地域を戦後最大の台風が襲って、熊野古道が崩れたり知り合いの家が土砂に埋まったりしたのです。この世界では、不幸なことが毎日のように起こっている。
私は結局、スーザン・ソンタグのいう『他者の苦痛へのまなざし』での問いに尽きると思いますね。震災の当事者ではない、被災地から全く遠い他者である私は、あるいはあなたは、東北で起こった苦しみや喪失を想像できるのかと。

宮島 全く同感です。想像力の究極は他者の痛み・苦しみを、あたかも自分のことのように引き受けられる力、考える能力だと思います。それに長けているのは、僕はやはり芸術家だと思っています。芸術家は、作品を介して他者や歴史への想像力を喚起することができる。津波で破壊されたピアノはもう曲を奏でることはできないけれども、向井山さんがそこに別の時間や物語を与えることによって、無音のまま人々のヴァイブレーションを起動させるのですね。
会場から おふたりはそれぞれ東北で3.11を経験し、衝撃を受けられたと思うのですが、人間として、あるいは芸術家として変化した部分はあるのでしょうか。
宮島 僕は3.11以降、まだ新作を発表していません。ですから震災の体験が自分の芸術表現にどのような変化を与えたのか、「つくっていないのでまだ分からない」というのが率直な回答です。しかし、それ以前からもっていた考えがさらに補強されたという意味での変化はありました。まずひとつに、「自然は人間にコントロールできない」ということですね。自然には畏敬の念をもって接するべきだということ。
それから「生態系に人工のエネルギーをもち込んではならない」ということです。これは原子力のことです。僕は福島第1原発事故に深く関わっている市場経済のシステムこそが、世界をセンセーショナルに混乱をさせている要素だと思います。経済に支配されている世界の状況に対して、自分が芸術家として何ができるのか考えているところです。
向井山 私は南三陸町や石巻に行って、避難所の人々の話を聞いたのですが、だからといって自分は何も変わっていないと感じています。それは、例えば、はじめて妊娠したとき、私のなかで子どもが育っていくとき、そして身近な人が死んだときなど、自分のなかで経験してきた痛みや喪失の実感を通してしか、今回の震災も捉えられてはいないということですね。私は私自身を離れて、震災がどのぐらい大変なことだったか、衝撃的だったかということは知りようがない。私は3.11以後も何も変わっていなくて、また世界中で哀しい事件が毎日のように起こっている。でも私はそこに自分を見つけてしまったのですね。石巻に残されていたピアノに自分を。
それでも、矛盾するのですが、今回の震災はとても大きな事件なのだと思います。私たちは毎日、日本や世界の各地で「あのときどうしていたか」とか、「無力だ」とか、「何をすべきだろうか」とか、とにかくそれぞれが東北の痛みを想像し、苦しみを共有したという意味で、とても大きなヴァイブレーション、大きな事件だったのです。(編集:宮本武典/テープ起こし:立花泰香)
ピアノの再梱包:記憶の「寄り代」として
2011年12月21日(Wed)
向井山朋子さま
アムステルダムは昨日から雪、のようですね。
2台のグランドピアノは無事、木箱に収まりました。
TRSOの倉庫に大きな箱が2つ入っているので、
無音のコンサートは、僕らのなかではまだ続いている感じです。
先週末にも、石巻市牡鹿半島の集落に学生たちと向かいました。
津波にかろうじて堪え、冷温停止中の女川原発のすぐそばの、
半島の突端にある海沿いの集落に向かう道すがら、
いくつもいくつも、ムラごと消えてしまった小さな浜を見ました。
住民の人影はなく、重機だけが寂しく黒煙を吐き出し、
ほんとうに、何もかもが灰色の更地になっています。
それは、渡波や湊も同じです。
ガラスの割れた窓の奥に暗闇を充填し、カーテンに乾いた泥をこびりつかせたままの、
粘土の上で傾いだ家々がひとつ消え、またひとつ消え。
そこに何が再建されるのか、見えていれば、寂しいばかりじゃないでしょうけれど、
未来への見通しもなく、ただただ、消えていくのです。
そして、運ばれていった大量の瓦礫は、日本各地を行くあてもなく彷徨っています。
(山折哲雄さんは、この風景を「〈賽の河原〉とはこういう世界だろう」と語りました)
ですからかえって、石巻の、小学校に残されていたピアノが、
あの姿ときのまま眠っていることの意味は、
後年ますます、重要になってくると思うのです。
幼い頃、能美島出身の母に手をひかれて、
丹下健三が設計した、広島平和会館原爆記念陳列館に行ったことを、
フト思い出しました。
とても恐ろしかったのですが、何故あのような禍々しい空間に、
親たちは子どもたちを「連れていかなければ/見せなければ」と思ったのか…。
また僕ら小さな子どもたちも、それを粛々と受け容れていたのか。
原爆を生き抜き、百才の長寿を全うした祖母の葬式の折、
ひとりで原爆資料館を再訪しました。
子どもの頃の記憶とは、随分ちがって見えました。
それはすでに原爆の記憶が僕のなかで記号化され、整理されていて、
得体の知れない恐怖ではなかったのだと思います。
(そして、震災直後の恐怖を僕はまだうまく整理できていない)
東北各地の寺社に伝わる地獄絵、また餓鬼草紙の凄惨な描写、
そして〈津波てんでんこ〉などの冷徹な教えに、
「何としてでも、この経験を後世に伝えなければならない」という、
親たちの逼迫した想いが、宿っているような気がします。
少し想像してみるのです。
僕らの世代が、父母となって、例えば原爆記念陳列館に、
いやがる幼い我が子を諭したり、抱えたりしながらでも連れて行って
「歴史の痛み/共同体の痛み」として理解させようとしたかどうか…
「そのようなことは、あえて知る必要がない。トラウマが心配だ」と、
我が子と歴史との接続を、切ってしまう道を、きっと大半が選んだと思います。
そのようなデタッチメントな社会を、超少子高齢化や、過疎による限界集落の発生、
年金制度の崩壊、格差社会の深刻化に片目をつぶり、
もう片方できょろきょろと「私/家族」の生き残りを画策しながら、
その結果が未来に何をもたらすのかを、暗に理解しているのにも関わらず、
僕は行動もせず、疑いなく生きていました。
そこにきて、この3.11。
2台のピアノは、被災地の人々、そして支援活動に携わった僕たちをはじめ、
3.11に何らかの形で関わったすべての共同体の、
「記憶の寄り代」としての意味を、帯びはじめていると感じています。
すべてが更地になっていくなかで、そのような「寄り代」をもてることは、
努力しなければ3.11の痛みを想像することさえ難しい、
僕のような愚鈍な人間にとって、これはひょっとして幸運なのかもしれないと、
雪に覆われはじめた被災地をみて、思った次第です。
時々とびらを開けて、追悼/参拝したいと思います。
+++++
ピアノは、安定した状態で保管されています。
僕たちは2012年度のプロジェクトに向けて動き出しましたが、
『夜想曲』の巡回については、必ず何かしらの
大きな展開・歴史的な役割がやってくるという、確信があります。
走りつつも、ピアノの出番を待つことにします。
どうぞお元気で。
来年も東北でお会いできることを!
宮本武典 拝
Nocturne - documentary photography
2011年11月30日(Wed)
『向井山朋子/夜想曲』本日、インスタレーションの公開が終了します。
2台のグランドピアノはこの後、泥を運送用ラップで圧着し、それから特注の木箱に封入して、しばらくTRSOの倉庫で眠りにつきます。
湿っていた石巻のヘドロはすっかり乾いて砂になり、脆く危うく、吹けばすぐに動いてしまうでしょう。同じように3月11日の痛みも、被災地の暮らしを想像する時間も、日常の喧噪のなかに埋没してしまいそうです。
あらゆる存在は移ろいゆく……砂のような、水のような流動性を担保することは、確かにリスクヘッジかも知れないけれど、固定されたもの、定着してしまったものに向き合い続けることの大切さを、ピアノの無音の重みは問いかけてくる。
私たちは、今後数年の歳月をかけて、日本国内、そして欧州での『夜想曲』上演を目指していきますが、『wasted』でドレスに付着した血液が(免疫上の理由で)国境をこえられなかったように、ピアノがまとった津波の泥を海外に運ぶためには、いくつもの問題をクリアしなければならないでしょう。
この2台のピアノを、このままの姿で保管すること。そして、このままの姿=時を止めたままの状態で、移動し、語り継いでいくこと。それが、『夜想曲/Nocturne』というプロジェクトの本質なのだと思う。
向井山さんとこの夏、石巻渡波地区で、被災した子どもたちやお年寄りに「夜、どんな夢を見ますか?」とインタヴューしたことがあった。その時のいくつかの音源は、コンサートパートでピアノの演奏に重ねられた。そして、ほとんどの人が「夢は見ない」と言った。
クリスマスのイルミネーションに溺れる街と、震災から9ヶ月経っても、まだ暗闇に包まれたままの夜の石巻。僕は、3ヶ月後に迫った2012年3月11日を、どのように迎えればよいのか、まだ態度を決めかねてる。1周年という区切りで、何かが区切られてしまうのが、むしろ恐ろしい。
あの人は、夜、目を閉じるとき、何を想うだろうか?
「夢を見ない夜」を想う『夜想曲/Nocture』の、今日は、はじまりの終わりにすぎない。
(2011年12月5日[月]/宮本武典)
*****
他者の痛み感じて 「震災ピアノ」で作品、タブー考える(2011/10/26 朝日新聞文化欄・丸山玄則)http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201110260160.html
Photography by Takenori Miyamoto + Hiromi Seno
2011/11/21/Yamagata
Photography by Hiromi Seno
2011/10/15/Shirataka
開催中:展示期間延長のお知らせ[2011年12月5日・月]まで
2011年11月22日(Tue)
山形にも雪の知らせが届きました。
『向井山朋子/夜想曲』インスタレーションの公開期間を延長いたします。
12月5日[月]までTRSOにてご覧いただけます。
数は多くありませんが、口紅を持参して、
じっくりと無言のピアノと過ごす方がいらっしゃいます。
2台のグランドピアノが設置されているTRSOでは、毎週土曜日の夜、
石巻での支援ボランティアを継続している学生団体『スマイルエンジン山形』が、
現地活動後のディスカッションをおこなっています。
彼らの支援活動(瓦礫撤去・生活再建支援)エリアは石巻市湊町で、
『夜想曲』のグランドピアノも、同じ湊地区の2つの小学校から運ばれたものです。
被災地に厳しい冬がやってきました。
震災はまた、その姿を変えようとしています。
宮本武典(本展キュレーター)
『夜想曲』に耳を澄ますための覚え書き
2011年10月25日(Tue)
ようやくスカイプの回線が通じたとき、私はアムステルダムにいる向井山朋子に、それまで準備をしてきた『wasted』の山形開催を断念すると伝えなければならなかった。東日本大震災の影響で、あらゆる文化事業予算が凍結されたためだが、もとより異様な自粛ムードのなかで私自身も『wasted』を3.11直後の東北で見せる意味を見失っていた。
私は忙しく働いていた。大学は閉鎖されていたが、やるべきことは膨大にあったのだ。家族を放射能汚染の不安から守り、東北出身の学生たちとともに避難所で働き、福島の子どもたちの疎開プロジェクトを立ち上げ、石巻で瓦礫やヘドロの撤去作業に没頭した。一方で、向井山は日本との時差・7時間のオランダで「朝、目が覚めたら日本という国が無くなっているかもしれないという恐怖で、眠るのが恐ろしかった」と語った。海外に暮らす彼女もまた、私たちとは異なる激しい揺らぎを経験している。
その夜、震災後のアムステルダムと山形の距離を慎重に埋めていく長い会話のなかで、私は瓦礫に覆われた石巻で見た、路上に放り出された泥だらけのピアノのことを向井山に伝えた。「宮本さん〈wasted〉の巡回は止めにしましょう。でも、どうなるかわからないけど、津波で壊されたピアノをどなたかに譲っていただくことは可能ですか? 私はそれを遺すべきだと思うんです」…
私は向井山のために被災地でピアノを探しはじめた。仏壇のように重々しく、ビロードの布を掛けられていた家々のピアノ。たとえその黒い表皮に埃が積もっていたとしても、ピアノは日本の家庭のなかで特別な〈場所〉だった。個人所有のそれらを持ち主の理解を得て譲り受けることは、予想はしていたものの、とても困難な仕事だった。瓦礫はかつて其処にあったはずの生活の痕跡であり、それらに海水とともに含まれている家族の記憶まで、縁なき他者が所有することはできないのだ。悩み、躊躇するうちに被災地の路上から次々とピアノは消えていった。だから、石巻の小学校校舎に残されていた2台のピアノに出会えたのは奇跡と言っていい。
報を受けた向井山はさっそく来日し、泥だらけのピアノに触れた。晴れやかな式典で、海を讃える校歌を弾いていた石巻のグランドピアノ。彼女は終始、黙っていたが、固まった鍵盤を這う指先の動きから受けている衝撃の大きさを伺うことができた。
巡り会ったこのピアノに、向井山は口紅を塗る、という――「仙台に行くと、女の子たちがちゃんと化粧をして、お洒落して街を歩いていたのがショックで、ジャージ姿の自分が哀しかった。避難所は化粧なんてできる雰囲気じゃなかったです」、「仮設住宅に住んでいるからこそ、身なりを整えて、コンサートや美術館に出かけたいのです」想起したのは、女川や塩竈で耳にした、化粧=日常への、被災した女性たちの渇望だ。いまは喉に泥を詰められて、声を失ったピアノたち/女性たち。傷ついた柔らかい声帯の奥から、ふたたび声や歌を呼び戻すのは、〈内部〉への手術ではなく、むしろ〈表皮〉への愛撫なのかもしれない。素顔に化粧を施すことによって許容される真実。現実と嘘が渾然一体となった真実。
『夜想曲』のプログラムとして、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別上映された『wasted』の記録映画『白い迷路―Water Children』に、印象的なシーンがあった。向井山朋子と監督のアリオナ・ファンデル・ホルストがテーブルを挟んで向き合っている。そこでアリオナは、この1年半におよぶ映画撮影の動機を告白し、それから静かに「私たちに何が欠けているかなんて、誰も外から見ることはできないでしょう?」と語った。この言葉は、『wasted』と『夜想曲』をひとつの流れにつなぎとめている。それが現実であれ、虚像であれ、私たちは人生において、たくさんの大切なものを理不尽にも流され、損なわれているのだ。多くの場合、それは秘されたままで心の深海に沈められているが、彼女たちはその在処を決して見失ったりはしない。
震災から7ヶ月のいまも、巨大な喪失を体験し続けている東北で、まだ無邪気に希望や夢を語ることはできないが、私たちはようやく失語症のような状態から脱しはじめている。誰かに向けて、震災前よりもほんの少し、真実の声を開く準備が整っている、と思う。
泥にまみれ、口紅を塗られたピアノがここにある。自らも深い喪失から還ってきた向井山の弾くショパンがある。ピアノは、女たちは、あなたは何を語りだすだろうか。
宮本武典(本展キュレーター/東北芸術工科大学主任学芸員)
※上記は、10/16-17に山形と東京で開催された向井山朋子のコンサート『夜想曲』で、来場者に配られたプログラムガイドのテキストを転載。インスタレーションは11月下旬まで東北復興支援機構TRSOで鑑賞可能です。













































