2009年08月10日(Mon)
浜辺の風景―海水浴・潮干狩り・白砂青松―
海水浴 ―医療と娯楽のあいだ
現在日本にある海水浴場はおよそ一四〇〇カ所、夏の天候によっても左右されるが、多いときで年間三〇〇〇万人、延べにして一億人もの人々が海水浴場を訪れるという。レクリエーションの多様化が進む今日にあっても、海水浴はわが国で最もポピュラーな海の娯楽のひとつとして親しまれている。
東北文化研究センターアーカイブスに所収されている絵葉書をのぞいてみても、海水浴を取り上げたものがいくつも確認できる。絵葉書の年代は昭和十年前後が多く、当時すでに東北から沖縄、大島などの離島、朝鮮半島や中国など旧日本領の各地にも海水浴場がつくられていることがわかる。
海水浴が誕生したのは十八世紀中庸のイギリス、産業革命以降、社会をリードした中産階級層の娯楽への需要が背景にある。その後、十九世紀にはヨーロッパ各地に定着し、日本には明治の開国以降訪れた西欧人たちの手によってもたらされた。「日本最古の海水浴場」を標榜する浜辺はいくつかあるが、いずれも外国医師や軍医など、西欧医療の一環として一八八〇年代に開設されている。
上の絵はがきは、江ノ島の片瀬海水浴場である。片瀬東浜海岸から桟橋、江ノ島を臨む構図で、よこしま柄のワンピースを着た水着姿の女性が納められている。木村春生『水着の文化史』によると、よこしま柄のワンピース水着が登場したのは明治四〇年とあるが、大正十一年に完成した江ノ島桟橋が確認できることから絵葉書は大正末から昭和初期に発行されたものだろうか。
観光地として歴史のある江ノ島は西欧からの来訪者も多かったこともあり、一九一五(大正四)年開設と海水浴場と国内の海水浴場としては早く開けた。「日本近代医学の父」として知られるエルヴィン・フォン・ベルツは、これ以前一八七九(明治一二)年七月六日に当地を訪れており、日記に次のように記している。
本日午後、バイル、ネットー、ナウマンその他と横浜へ、横浜から馬車で江ノ島へ。日本のある役人が海水浴場を設けようと計画しているので、それに適した場所をそこで探そうと思った。しかし江の島自体は、岩の多い浜辺であるため、あまり適当でないことがすぐわかった。これに反して、七里ガ浜と称される海岸地帯の、片瀬に境を接する部分は、これにおらつらえ向きである。そこの浜辺はすばらしく、底がよくて、岸にはじゃまものがない。なんとかなるだろう。(『ベルツの日記』岩波文庫)
ベルツは東京大学医学部で明治九年から二六年間にわかって教師を努めた医師で、日本の生活文化にも造詣が深く、温泉や海水浴場などの医療・保養地の発展にも大きな影響を残した。日記には、「日本のある役人が海水浴場を設けようと計画しているので」というくだりがあるが、当時国が主導して日本各地に海水浴地の計画が進められていたことがうかがえる。ベルツは、草津温泉など近世から続く伝統的温泉地をこよなく愛し、西欧的な医療・保養の視点から温泉地や海水浴場の積極的な利用を勧めた。それは、鉄道網や郵便制度が整備に伴い、異郷の情報や移動手段が格段に向上する民衆生活の状況に大いに受け入れられたことは容易に想像できる。当時の雑誌に、詩人濱子は次のように書いている。
濱の松風音清きほとりに、海水浴すつは夏の愉快のひとつにこそあれ、我国には十年あまり前よりこの行事行われ来りつ。その有益なるは、海水中にふくめる塩素、あるいはソジュームの皮膚をとほして人の体内に入り、体熱の為に化学的変化を起こすによるなり。又波動の作用、海浜の清空気も相持ちて功を奏するものなりとぞ。我国にて、はじめて行われたる場所は房州舘山のほとりなるが、その後各地に行はれて、現に海水浴場とて著名なるは、大磯、江の島、逗子、鵠沼、興津、舞坂、須磨、明石、舞子などなり。これらはみな旅館など列ねて、たふとき人あるは外国人の集まる所ときけば、いかにはなやかに都にもおとらずさわがしさからん、とぞおぼゆる、かゝらん所よりも、なほたかるなかの静なる海辺に没したらんこそよからめ、と思はるゝもかたくななる心からにや。(濱子「海水浴」『婦人と子ども』一−七)
にわかにブームとなり賑やかになった海辺の風景、海水浴に適した海浜部には新たな旅館が建ち並ぶようになり、都会にも劣らぬ賑やかさをもつようになった。そうした喧騒の様子と同時に、それ以前の静かで閑寂な海辺こそいいものだったのに、と思う詩人らしい気持ちがつづられている。
上の絵はがきは、筆者の思い出の海辺の風景である。場所は鹿島という愛媛県松山市北条の沖四〇〇メートルに浮かぶ小さな島。鹿島は周囲一・五キロの無人島で、中世の豪族河野氏率いる水軍の根拠地となった城が築かれた場所でもある。絵はがきの写真は島の裏(西)側にある水晶ケ浜の自然石の石門である。筆者は毎年夏休みになると、母の実家に滞在し、家族や従兄弟たちとここを訪れは海で泳ぎ、この石門に登って遊んだものである。
十数年前になるだろうか、島の舟発着場に近い島の南側の磯をコンクリートで固め大量の砂を持ち込んだ人工の海水浴場がつくられた。以前そこには千畳敷と呼ばれ海蝕岩の磯がひろがり、自然美あふれる島の景観の一部となっていた。おそらく、水晶ケ浜の海水浴場は徒歩ではやや時間のかかり、途中道が細く落石などの危険があるなどの理由から、安全と観光客、海水浴客誘致のためにくだした決断なのだろうが、工事作業がすすみ磯が変わり果てる様子を眺め、私は言葉を失った。
水晶ケ浜へは、連絡船に乗って島に渡り、整備の行き届いていない海岸べりの道を二〇分近く歩いてようやく到着する、幼少時の私にとっては特別の場所だった。島に棲息する野生鹿の歓迎や、千畳敷の磯、道中の犬戻りという難所も、水晶ケ浜にたどり着く手続きの景観で、それらすべてが水晶ケ浜の魅力のように思われた。現在の整備された海水浴場は便利で安全なのかもしれないが、私を含め鹿島を愛する人々が、島の景観を変えてまで安全で便利な場所を求めていたかというと、疑問が残る。環境と人間との関係が見直される今日、開発と保全、そして自然と保養との現代的な意味を慎重に問いなおさなければならない。
潮干狩り −−禊ぎの場
遠浅の砂浜で砂中の貝などを採る潮干狩りは、春から夏にかけての浜辺の風景のひとつだ。潮干狩りは、現在では娯楽に主体をおいた砂浜での食用資源の採取行為と思われているが、それだけではない信仰的な背景が存在する。
旧暦三月三日は一年のなかでもっとも潮が引く時期であるが、この頃に人や御輿が浜に出て潮水を浴びる「浜おり」という民俗行事がひろく存在する。全国的にみると、東日本の太平洋側に村落の祭礼として行われる浜おりが見られ、九州の西海岸から南西諸島にかけて個人や家の年中行事としての浜下りが見られる。たとえば、宮城文の『八重山生活誌』には次のようにある。
三月三日の節句をサニジといい、この日女は海に降りて足を濡らす日だという習慣になっている。婦女子の浜降り=当日婦女子は、貝拾い、もずく、アーサ、などの海藻採りをして夜はその獲物で御馳走を作ることを楽しみにする…。
御輿や神体を潮水に浸ける、あるいは婦女子が海に降りて足を濡らすという行為は、実は「禊ぎ」を意味している。各地の潮干狩りを納めた絵葉書をみてもわかるが、そこに登場する人物のほとんどが女性あるいは子供であることは決して偶然ではない。男性が沖へ漁撈に出るのに対し、女性の漁場は砂浜・磯・イノー(礁地)などであったのだ。
三月三日は女の節句として雛祭りが行われているが、この日ハマグリやアサリなどの吸い物を食べる習慣は根強く、また、海から離れた内陸部ではハマグリやアサリに代わってタニシの味噌和えを饌食とする地域も多い。潮干狩りの背景には、旧暦三月三日に婦女子が浜降りをして潮につかり、そのさい採取した鹸水性の貝をお雛様に供えて食べるという習俗がある。浜辺に降りて心と体を浄め、貝や海藻を口にして体を養い、子どもを産み育てる女性の力を強める日であった。
白砂青松 −聖と長寿の象徴
白砂青松とは、白い砂と蒼々としたクロマツよって形成される日本を代表する美しい海辺の景観である。白砂青松の風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれるが、それは海の安全を祈願する神社として知られる大阪市住吉区の住吉大社の地が、かつては海に面し、上方を代表する風光明媚な景観であったからである。また、齢を重ねた相生の松の樹陰に尉と姥が寄り添って立つ「高砂の図」は、白砂青松の美しい海辺の風景と人生の円満・長寿の折り重なった、日本人の究極の理想図というべきものである。天の橋立、虹の松原、三保の松原などは日本を代表する白砂青松の地であり、絵葉書のなかにもその景観が多く残されている。
上の絵はがきは、京都宮津市の宮津湾にある天の橋立である。宮津湾に北接する笠松公園から撮られた写真で、振り袖の着物を着た若い女性が石台のうえに立って股の間から天橋立を覗いている。伊邪那岐命が高天原に通うために立てた梯子がうたた寝をしているうちに倒れ、それが天橋立となった、という神話はよく知られているが、股の間から宮津湾の砂嘴を見ることで、それが天空にかかる梯子、天の橋立となって見えるのである。山麓の集落府中から笠松公園までのケーブルカーが完成したのが昭和二年、この絵葉書も観光客への一層のアピールを目的につくられたものなのだろう。
上の絵はがきは、日本三景のひとつに数えられる宮城県の松島。松島とは湾内外にある大小二六〇余りの島々からなる景勝地で、島々のほとんどは丘陵地が沈降して島となったもので、凝灰岩地層のため浸食と風化が激しく、現在でも少しずつ風景が変化している。絵葉書は大同二(八〇七)年、坂上田村麻呂の東征の際に建立されたという松島のシンボルのひとつ五大堂付近の風景である。現在は車通りの多い国道に隣接しているが、絵葉書の風景は未舗装未整備の五大堂の原風景がうかがえる。五大堂は海岸からふたつの小橋が掛けられた小島のうえに建てられているが、それは四方を潮に囲まれた清浄なる空間でもある。五大堂へ参る人々は必ずふたつの橋を渡り海に臨み、「禊ぎ」をへることになる。
上の絵はがきは、日本三大松原に数えられる静岡市清水区にある三保の松原。三保半島は駿河湾に深く差し出た砂嘴で、一角には大己貴命と三穗津姫命の二神を祀る御穂神社が鎮座する。その美穂神社から海岸に向かってまっすぐに松並木があり、その先の砂浜に「羽衣の松」がある。樹齢六五〇年と推定される古木である。有名な羽衣伝説は次のようなものだ。
その昔、天女が天降り、身に付けていた羽衣を松の枝にかけて海に入り、水浴した。そこに白竜という漁師が通りかかり、羽衣をとって持ち帰ってしまった。天女はそれがなければ天へ帰れないので返してくれと嘆願し、お礼に舞を舞う。天女は十五夜の美しい月夜の空に舞い上がり、七つの宝を降らせた…。
羽衣伝説は日本だけでなく世界中に分布しているが、三保の松原の羽衣伝説には人間との結婚という異類婚姻のモチーフはなく、東遊の駿河舞の故事を加味しているところに特徴がある。
数年前、三保の松原を歩く機会を得た。御穂神社から浜辺に続く樹齢百年を超える松林はみごとであったが、よくみるとその松一本一本には防虫防除の注射痕がいくつもあった。マツクイムシかと思ったがそうではなく、シロアリの被害が進んでいるのだという。羽衣の松まで歩くと、遠足にきた小学生たちがここで記念写真を撮っていた。外洋に面する松原の南側の砂浜に立つとそこからは富士山が一望できた。白砂青松と霊峰富士、そして天女の伝説、ここはまちがいなく日本を代表する浜辺の風景である。
日本人とって浜辺の風景は、生活と信仰の具体的な関わりのなかでつくられてきた。海岸につづくクロマツ林は集落や耕地を風から守った。近くに山をもたない海辺の集落ではクロマツの落ち葉を貴重な燃料とし、林床に生えるキノコを食糧として利用した。砂嘴や砂州を伴う浜辺は聖地となり、多くの伝説を生んだ。人々は時を定めて浜に降り、潮に身を浸し貝や海藻を口にして禊ぎをおこなった。浜辺の風景を構成する潮・砂・松はどれも日本人の精神世界に深く関わるものだったことを、絵葉書の風景から今一度確認しておきたい。(岸本誠司)
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2009年05月01日(Fri)
炭鉱の風景と思い出
私が育った山形県大蔵村には、比較的規模の大きい炭鉱山がいくつかあった。昭和30年代から50年代までその鉱山は、村の経済基盤を大きく支えていた。農業を基盤とした生活の環境下にあった私にとって、その炭鉱で働く人々の生活や炭鉱山そのものの存在を覗くことは、とても大きな異次元体験であったといっていい。
毎年、何人かの転校生がやってきた。そしてその転校生たちは、村で生まれ村で育った私たち少年にとって、とても魅力的な存在であった。男の転校生は、当時流行のアクションスターのブロマイドなどを持ち歩き、模造ピストルをひとさし指でくるくる回してみせたりしながら、私たちの視線を一瞬に釘づけしたのだ。女の転校生は、外国人ではないかと思える程に背が高く、その上品に微笑む容姿を、村の少年たちはただただ遠巻きに眺めるだけだった(後に「風の又三郎」など宮沢賢治の数々の童話を読み、転校生に対する村の少年たちのまなざしと私たちの思いは同じものだと思ったりした)。
それにたまに遊びに誘われて彼の家を訪ねたりすれば、ズリ山と呼ばれる廃炭山を通過して長屋風の家に案内されるのであった。そうすれば、そこにはもう私たちの日常とは全く別な世界が展開されているのだった。炭の煤けたような匂いが強烈に私たちを襲った。土の感触とは全然違う炭屑を踏み固めた細い道を通る道すがら、私たちは見たこともない機械やコンクリートの壁を発見していた。
それは黒いもの一色に覆われた光景であったが、その道々を、私たちは異様に興奮して歩いた記憶がある。樹木があるわけでもなく、目に緑が写し出されるわけでもない。しかしその道は人間の行為というものの剝き出しの形が露出しているような感触があって、私たちを妙に生々しくさせたのだった。私たちは、働き、そうして営まれる生の輝くような力強さに圧倒されるような気分であったのだ。
農耕のリズムといえばいいのか、静かに緩やかに徐々に徐々に変化する時の経過に支配されていた私たちにとって、そこは過激でありながら生の非連続性を帯びた、見たことのない時空だったといっていいのだ。
そうして招き寄せられた私たちをいつも向えてくれるのは、顔の黒い細身のお婆さんだった。そしてそのお婆さんは、いつも炭を削るハンマーを持っていて、常に手を動かしていたように思える。顔の黒いお婆さんなどは、村の集落でいつも見てはいたのだが、炭山のお婆さんの顔は、一本一本の皺までに黒さが染み込んでいるように思えたのだ。このように生きるのが人生なのだとでもいいたげに、お婆さんには皺が似合っていた。
しかしお婆さんはとても優しかった。転校生の友だちだと知ると、私たちに家ではめったに食べられないスルメのような乾物をどんどん出してくれるのだった。板の間に薄いゴザのようなものを敷いただけの部屋のなかは夏でもストーブが燃えており、私たちはその周りで転校生の話を長々と聞くのが楽しみであった。それは知らない土地の話であったり、大人という人種の秘密の話であったりした。
そこは、少年たちにとってやはり楽園のような場所であったのだ。人間が作り出した黄土のような場といえばいいのか、人間が人間として生き続けていくためにぎりぎりの淵で発した吐息のようなものにまみれながら、しかし親切や思いやりや、また諍いや憎しみまでをも呑み込んでしまったことで作り出されていった美しい人工の場所であるように、少年たちには思えたのだ。
村の少年たちは、いっときであるが(昭和60年代に入ってくると、これらの炭山は大方閉鎖されていく)そのリズムを体験した。私たちの日常とは全く別なリズムがこの世には存在することを、私たちは体験的に知っていったのだ。そして私たちは、そういったリズムを受け入れていくことこそが、生きるということに繋がることを納得したのだった。少年の日のあの異次元体験を、私たちは確実に持ち歩いている。
私たちの先人たちは、貴重な証言を残してくれている。現在、東北文化研究センターアーカイブスによって目にすることができる数々の絵葉書や写真は、封印された歴史の事実を再び喚起するように、私たちに訴えかけてくる。そしてそのことは、私たちに語りかけることを誘発する。他の人に語りかけることを誘い出してくるのだ。
私たちは思考するだろう。一枚の絵葉書や写真を前にしてその思考は、私と誰かを繋ぎとめていくであろう。私たちは一枚の絵を前にして、語りださなければならない。語りだしながら、そこに映し出されたなにものかを、他の人と共有しなければならないのだ。
思い出話であってもいい。懐かしい風景への思い入れであってもいい。想起されること、イメージされることであってもいい。その一枚を通路にして私たちは、そこの場所はどこなのか、そうしてなぜそれが出来事(突起すること)として映し出されているのかを考えればいいのだ。それが歴史を語ることであり、そこに作り出されていった思いの結実(民俗の様式性)に繋がることになるだろう。
現在に生きる私たちは、あまりにも、風景を語り、風景を共有する術を持たないでいるのではないだろうか。私たちはあまりにも、時代を語り、時代を引き継ぐ方法を持たないでいるのではないだろうか。そういった語りの訓練を促されるのが、一枚の絵葉書や写真なのだ。その貴重な素材を、東北文化研究センターの絵葉書アーカイブスは与えてくれる。
(文責:森繁哉)
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2009年02月01日(Sun)
韓国文化の風景・2
韓国の古代風景
絵はがき@ 平原に3つの三角の小山があるように見えるが、これらは平安南道江西郡にある高句麗(紀元前37〜668)時代の古墳である。
この絵はがきは、1912年、当時の東京帝国大学建築学科の助教授だった関野貞(ただす)等が調査に行ったときに撮った写真である。江西三墓が発掘され、古墳周辺の地名は遇賢里から三墓里に改称された。三墓は、大きさ別に大墓、中墓、小墓と呼ばれる。古来から韓国の墓は土饅頭が一般的なので、先山(祖先の墓地)には先祖代々の土墳群になっている。
絵はがきA 江西三墓の大墓と中墓の壁には、四神図が描かれているが、これは大墓に描かれている玄武である。大墓は、基底の径は51.6メートル、高さは8.86メートルである。花崗岩の北壁に描かれている玄武は、敏捷に見える亀の足や、亀に巻きついている蛇の曲線のバランスがひじょうに綺麗である。
絵はがきB 花崗岩からなる奇岩怪石が連なる山々や美しい渓谷の景観で、韓国では最も綺麗な山といわれる金剛山である。標高1638メートルで、春は金剛山、夏は蓬莱山、秋は楓獄山、冬は皆骨山と呼ばれている。
南北が分断され韓国からは自由に行けなかったが、1998年11月から、両国の歩み寄りにより観光が可能になった。ところが、今年の7月11日、この地で韓国の観光客の主婦が銃撃されるという悲しい事件が起きてしまった。
絵はがきC 金剛山は、女性的な内金剛、男性的な外金剛、そして海岸の奇岩の風景である海金剛に分けられる。Cは海金剛にある松島である。かつては修験者たちがここで松の葉を食べながら修行を行っていたという。
海金剛は、金剛山のように綺麗な景色だという意味で付けられた名前で、韓国の南にある巨済島にも海金剛という地名があり、多島海にある「紅島」は、西の海金剛といわれている。
絵はがきD 新羅時代の流觴曲(りゅうしょうきょく)水(すい)宴(えん)の址(あと)で、慶州の南山にある。憲康王(在位875〜886年)がここに御幸されたとき、南山神が現われ王の前で舞いを舞ったが、臣下たちには見えず、王だけがそれを見たという。鮑(あわび)の形の水路を石で造ってある。かつては離宮があったようだが、現在は水路のみで離宮は残っていない。
絵はがきE 新羅の善徳女王(在位632〜647年)時代に築造された現存東洋最古の天文台である。瞻星台の左は畑で、右奥に草葺き屋根の家が見えるが、今は瞻星台の周囲を広げて鉄棒で囲っている。
絵はがきF 忠清南道論山市恩津面灌燭里の灌燭寺にある石造弥勒菩薩立像で、恩津弥勒とも呼ばれる。弥勒の高さは、18.2メートルで、この弥勒には次のような説話がある。
高麗時代の第四代王である光宗19年(968)に、沙梯村に住んでいるある女性がわらび採りに般若山に入ると、谷の方から子供の声がしたので、声を辿って行ってみると、そこに大きな岩が聳えていた。その岩をもちいて、970年から石工百余人が石仏造りに着手し、1006年に完成した。石仏は大きい二つの岩を腰部でつないである。
完成された弥勒像の眉間の白毫相(びゃくごうそう)から四方に光を放ち、まるで蝋燭のようだったので「灌燭寺」と名づけられたという。絵はがきの弥勒立像の前にお坊さんが立っているので、その高さが比較できる。
絵はがきG 忠清南道夫餘郡陵山里にある百済の古墳群の一つである。全部で八基の古墳の中の第1号で、東下塚と呼ばれている。夫餘は、百済の最後の首都である泗沘城があったところで、泗沘時代(538〜660年)の王陵と言われている。絵はがきの下の方の写真は、王陵の玄室に描かれている蓮花飛雲紋の天井の絵である。
◆ 韓国の近代の刻み
絵はがきH 1911年9月、ソウル永登浦に「朝鮮皮革株式会社」創立され、翌年1月に工場が建てられた。当時日本は、民需的にも軍需上からも新式で大規模な皮革工場を興こす必要があった。そこで日本に比べて牛の多い韓国に皮革工場を建てた。この工場は、韓国における日本の化学工場進出の魁(さきがけ)となった。この工場では、軍靴、警官靴、市場靴などを大量生産して、日本や中国の市場にも供給した。写真にも長靴などが見えている。
絵はがきI 蘭谷機械農場については、『朝鮮半島に夢を求めて―野村ファミリー激動の世紀』(2005年)に詳しく記されている。それを基にして次にまとめる。
中国青島市に租借地があったドイツ人は、1941年11月日本軍に敗れ、その地の5千人のドイツ人が捕虜となり、12月に日本に護送された。そのドイツ人俘虜の中に農業事情に通じ、しかも日本に永住し、ドイツ式農法を取り入れた農業に長じた者がいて、俘虜の中から農業経営に必要な技能を持った数名を募集した。大正9年(1920)4月に、江原道准陽郡蘭谷面に「蘭谷機械農場」を創業したが、その後、昭和7年(1932)にドイツ人たちの契約満了により、それ以降農場は日本人中心となる。蘭谷は、38度線から北に100キロメートル離れたとことで、現在は北朝鮮である。
蘭谷機械農場は、加耕地面積600町歩で、放牧地、樹林地400町歩であった。Iは、農場の放牧地で羊の放牧が行われている写真である。
絵はがきJ 説明文には次のように説明されている。少し長いが次にあげる。
「『金を含まない一捏の土を摑み取ることは、朝鮮では不可能である』とまで謂われ、半島地下資源の大宗をなす。昭和七年の産金奨励政策以来のゴールド・ラッシュで、産額比年激増、十年度は約四千万円で密輸退蔵を含すれば七千万円とも推想され、内地のそれと匹敵し、一億円に達するも近き将来であろう。かくて我国の産金がシベリアを除くアジア全体の5割を占め、又欧洲ではロシアを除いて我に比肩し得る国がないのは心強い」
20世紀初頃、韓国は周囲の諸国から地理環境的にも、資源的にも、<黄金の国>と思われていたのであろう。そして、大陸からも日本からも、自国の国益のための犠牲とされたのである。
(文責・李 恵燕)
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東文研アーカイブス通信[7]─『東北一万年のフィールドワーク 飛島』いよいよ刊行─
東文研アーカイブス通信[7]
─『東北一万年のフィールドワーク 飛島』いよいよ刊行─

報告書編集作業中の学生たち
東北芸術工科大学では、平成20年度文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業「東北地方における環境・生業・技術に関する歴史動態的総合研究」に取り組んでいます。その中の「映像アーカイブの高度な活用に関する研究」の一環として、学生たちによるチーム「あるく・みる・きく」を核とした調査活動を行っています。チームが集落を訪ね、民家に残る古写真を見せてもらい、それを手がかりに聞き書きを行うもので、調査結果についても学生の手でまとめ、発行していこうというプロジェクトです。
その第1巻目として、2009年2月に報告書『東北一万年のフィールドワーク 飛島』が刊行されます。発刊に向けて編集作業に取り組んでいる学生らの声をご紹介します。
―― 「映像アーカイブの高度な活用に関する研究」の一環として、歴史遺産学科の学生らが中心となってチーム「あるく・みる・きく」を結成、民家に保存されている古写真を手がかりに聞き書き調査を行っています。今回は山形県酒田市から日本海側39キロの位置にある飛島に赴き、のべ2カ年にわたって調査を行いました。調査には、学部生、大学院生あわせて10人の学生が参加しています。報告書編集作業を行っている川合正裕さん(芸術工学研究科芸術工学専攻歴史文化研究領域博士後期課程)から調査の目的や報告書の意図について説明してもらいましょう。
川合 飛島の古写真を手がかりに聞き書き調査を行いましたので、文字中心の報告書ではなく、写真を多用したブックレット形式にしました。第1冊目なので、次号からひな型として使えるように、体裁などの土台づくりを意識しました。写真中心という方針はすぐ決まりましたが、どのテーマをどの順番で紹介していったら効果的なのか、構成を考えるのに苦労しましたね。
――どんなテーマで構成しましたか。
川合 海と暮らす、山と暮らす、島と祈りなど、島の1年の暮らしを見つめるもの、それから民家の調査や水の利用方法など、島の環境や住まいについて掘り下げるもの、その他に、出稼ぎや、勝浦地区の観光など、それぞれ学生たちが関心を持ったものをテーマに選びました。
また、「集落図」の作成も活動の要のひとつです。集落図とは、集落がどのように形成されているのかを記録する地図のようなもので、飛島では勝浦、中村、法木の三集落を作成しています。今回の報告書でも集落図に写真を組み合わせて構成しています。
――チーム「あるく・みる・きく」には、学部の1、2年生も参加しています。歴史遺産学科1年生の橋本綾さんと小川ひかりさんは報告書の編集はもちろん、フィールド調査も初めての経験ですね。調査で感じたことや工夫したことを教えてください。
橋本 私は実家が寺なので、飛島のお寺や壇家、お墓をテーマに聞き書きをしました。飛島は初めてですし、お話を聞いた方は世代も違ったので、最初はどんな風に話を進めたらいいのか戸惑いました。初対面の人にこんな話を聞いてもいいのだろうかとか、こんな質問をしても大丈夫だろうかと考えながらお話を聞きました。飛島にはまだ厚い信仰が残っていて、日本人が本来持っていた祈りの心が伝わってくるようでした。
小川 私は食べ物に関する話を中心に聞きました。飛島というと漁業のイメージが強かったので最初は畑作についてまったく意識が向いていなかったんです。でも、古写真のなかには、数は少ないけれど畑の写真もあって、大豆を叩いてる写真なんかもありました。写真から畑の作業は女の人がやっていることがわかりました。
飛島ではクデという小魚がとれます。私自身は、クデについてほとんど知らずに、クデの写真を島の人に見せたんですね。そしたら、そこにスズメが写っていると言われたんです。指摘されるまで私はスズメの存在に気づいていませんでした。そのスズメにクデを食べられた話をきっかけに、クデの獲り方だとか食べ方だとか、どんどん話が広がっていったんです。同じ写真を見ていても、見る人が変われば見えてくることも違うと知って驚きました。それから1枚の写真から次々に話が広がっていくのもすごいと思いました。
――古写真を利用するメリットは、小川さんの言うように、視覚的な情報から土地の人の記憶を引き出したいというねらいもあります。聞き書きに基づく叙述は地域の人の語り口を記録できるとともに、調査する側の主観をできるだけ排除し、地域の人の視点で記録することができますね。
川合 そうですね。調査結果をまとめることで、ある時代の記録として将来的にも大きな意味を持ってくると思います。調査に関わった学生たちもブックレットにまとめることで、もう一度、地域の人から教えてもらったことを考え直すきっかけになります。地域のために自分たちができることは何か、日本の将来にとって大切なことは何かを考えていくいい機会になると思います。
報告書が完成したら、飛島を訪ね、お世話になった皆さんに手渡ししたいと考えています。直接感謝の気持ちを伝えたいですし、感想も聞いてみたいですね。中には、首を傾けられる部分があるかもしれませんが、そうしたことも含め、今後の参考にしていければと思っています。
飛島の次は、山形県小国町や秋田県の男鹿半島、青森県の下北半島などを取り上げた報告書を刊行する予定です。いずれの地域も報告書を作って終わりではなく、この活動がきっかけとなって新しい関係が生まれていくようにしていきたいと思います。
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2008年11月01日(Sat)
韓国文化の風景1
絵はがき@は、釜(プ)山(サン)東(ドン)来(レ)の市場の風景である。かつては、三日市、五日市、七日市などの定期市があった。市場では穀物や生活全般のものが売られていた。市場に集まっているほとんどの人が白衣で皆が同じように見える。写っている人々の服装は同じでも、被り物は様々である。被り物からは、身分や時代が分かる。麦わら帽子や笠を被っている男性、バス(馬の尾の毛)で作られた黒い笠を被っている男性、白い頭巾を被っている女性、頭に籠などを載せて運んでいる女性、黒い学生帽を被っている少年たち。前中央のところに、着物姿の女性が傘を差しているのが目立つ。長い間、庶民が身にまとってきたのは白衣で、素材は主に木綿や麻であった。一方、両班(ヤンバン)(貴族階級)や宮中の官僚たちの服装は色鮮やかで、色で身分や結婚・未婚などが区別されていた。貴族や王族たちの服の素材は絹であった。白い色の日用品は白衣のほかに、庶民の常用する食器も白い陶器であった。それから、白磁や祭祀を行う時に用いられる白い餅、お葬式の喪主や親族たちの白装束など、神事にも弔事にも白が用いられた。
@には「白衣雑踏せる東来邑内」と記されている。今回取り上げる絵はがきは、植民地時代のものなので、説明文は日本人の目に映った感想である。皆が同じく白衣を着ている風景は、きっと異様に見えただろう。ほかの絵はがきにも白衣の群集が異様な光景として度々書かれている。好きな色の服を自由に着られる現代の韓国人にも、白一色だけ着られる時代のことを想像するのは難しいだろう。
絵はがきAは、4人の女性が川辺で白い衣を洗濯している情景である。左の2人は婦人で、右の2人は少女である。婦人の髪型は上げてまとめている。右の少女は三つ網みにしている。かつて韓国では、結婚する前は男女とも髪を三つ編みにしていたが、成人式や結婚するときに髪を挙げてまとめた。男性は長い髪を結って頭頂でまとめた。
女性たちは、洗濯物や洗濯棒などを入れた容器を頭にのせて、家近くの水辺に行く。左の女性と左から二番目の女性の間に置かれている洗濯物を運ぶ木製容器のなかに、揺り輪(物を頭上にのせて運ぶとき、容器と頭の間に敷く輪)が二つ入っている。揺り輪は、韓国語では「トゥアリ」と言うが地域によって発音が少しずつ異なる。容器の右には、女性の履物がある。洗濯をする時は、洗濯棒で叩いたり、平らな石の上で洗濯物をこすりつけたりして汚れを落とす。Aに見える洗濯石は、人工の石である。右から二番目の少女が使う洗濯石の上に、洗濯棒が見える。昔は、赤ちゃんのおしめも白い木綿布を使ったので、冬は氷を割って冷たい水で洗濯をすることもあった。冬場の洗濯は、途中で洗濯物が凍ったり、手が霜焼けすることもよくあった。
かつて韓国の家庭において、日々のおかずとしてキムチは欠かせないものであった。絵はがきBはキムチを漬けている写真で、白菜キムチを甕に漬け込んでいる。平台の左角に置かれてある容器のなかに、カクテキ(サイコロのように切った大根を漬けるキムチ)も切られている。女性たちは髪を綺麗に梳(と)かして整えている。女性の髪上げは、目が詰まって歯の多い爪(つま)櫛(ぐし)で梳(す)いた。女性たちの左に甕置き場があるが、こちらに見える甕の蓋には全部摘みが付いている。このような摘みのある蓋は、蓮峰形の摘みと称され、主に小さい壺に多いかたちである。全国的に見ると、上面が平らな甕の蓋が一般的で、大きい蓋には左右に取っ手がついてあるものが多い。蓮峰の蓋は、ソウル・京畿などの一部の地域で主に使われ、経済的に余裕のある家で使われていた。甕は、甕の市や行商人から購入したが、蓋は割れやすいので別途に買うことが多かった。また、甕を注文して作ってもらうこともあった。甕置き場の後ろ二列の蓮峰の蓋は、ほとんどかたちが同じなので、おそらく注文したものであろう。Bに写っているように、甕置き場のすべての甕の蓋に摘みが付いてあるのは、今はあまり見かけられない。
絵はがきCには、「甕をなくして朝鮮の生活は成立しない」と記されている。キムチはもちろん、醤油や味噌類を貯蔵するために、甕は韓国の家庭では必需品である。貧しい家でも甕はなくてはならない。甕は商船で運ばれてくるので、川の船着場に市が立つことが多かった。ここから行商人たちが甕を背負いにのせて村々に歩き売る。背負いにいくつも重ねて売り歩く行商人もいるが、見えるような大きい甕の場合は、背負いに一つしか載せられない。川の向こう側に渡し舟が着いて、舟から人々が降りているのが見える。かつては、人だけではなく、牛や馬、輿、そして車までも、あらゆるものが渡し舟で運ばれた。漢江の商船が着くところは、麻浦であった。魚、塩、甕など様々なものが船で運ばれてきた。
絵はがきDは、ソウルの中部を東西に流れる漢(ハン)江(カン)で氷上釣りをしている写真である。後ろに見えるのは漢江鉄橋。漢江鉄橋は全部で四つである。第一鉄橋は1900年7月、第二鉄橋は1912年9月に完成した。後ろに二つの鉄橋が見えている。第三鉄橋は1931年に橋梁工事が着工したが資材の不足で1944年に完成されたので、Dは1931年以前の写真である。前の人は、白い木綿の被り物の上に毛糸の帽子を被っている。説明文に「太い鉄棒で氷に穴を穿つのも一苦労だが、氷の上で一日座っているのも並み大抵ではない」と記されている。前に写っている人は、ソリの上に筵のようなものを敷いて座っている。左に鉄棒が見えている。取っては玉のように丸い形である。
かつては、漢江は何十センチも氷が張った。韓国戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)の1951年1月4日、中国軍の介入によって首都であるソウルを引き上げて人々は南に後退した。このとき、漢江鉄橋は三つとも破壊されて、避難民は漢江の氷の上を歩いて南に逃げのびた。漢江の氷の厚さは、4、50センチは普通だったので、大勢の人が歩いて渡ることができたのである。いまは、温暖化などで結氷期間も短いし、氷が張っても薄く、結氷しない年もある。
いまは韓国でも、川の水をそのまま飲む人はいないし、水道水でも浄水器を通して飲む家庭が多い。だが、かつては、川は飲料水として利用され、漢江や大同江などでは冬には氷を採取して、氷室に保管していた。冷蔵庫がなかった時代の先人たちの知恵である。絵はがきEにも見えるが、氷を採取する鋸は、材木を切る鋸と比べて取っ手も刃も長い。氷を運びやすい大きさに切り取って、背負いや牛車で運んだ。朝鮮王朝時代のソウルでは、漢江の氷を採取して「東氷庫」と「西氷庫」に保管した。東氷庫の氷は、旧暦3月から霜降(10月23日頃)まで国の祭祀などに用いられ、西氷庫の氷は夏季に官僚たちに与えられた。現在も西氷庫は地名として残っている。
韓国では、氷室を氷庫、藏氷庫と称していた。絵はがきFは、慶州にある「石氷庫」である。『三国遺事』によると、新羅の儒理王(BC19〜AD18年)の時に、初めて「藏氷庫」が作られたという記録があるが、かつての氷室は木造だったので現存しない。慶州の石氷庫は、朝鮮王朝時代の英祖14年(1738)に、木造の氷室を石造で築いたと言われている。
入り口から階段でなかに入ると、天井はアーチ形で、床は奥に向かって傾斜になっている。入り口の高さは、1.78メートル、幅は2.01メートルで、内部は花崗岩である。氷の溶け水が流れるように床の中央には排水路がある絵はがきGのタイトルは、「新羅遺跡石氷庫」で、説明文には、羅代の氷庫にして花崗岩製、内径横19尺(約5.8メートル)、奥行約56尺(約17メートル)、高さ約18尺(約5.5メートル)と記されている。
いまは、修学旅行で外国に行く時代であるが、かつては学生たちの修学旅行で最も多い行先が慶州であった。朝鮮王朝時代以前は仏教が護国宗教で、慶州は華やかな仏教文化が花開いた新羅の都であった。慶州では、吐含山(海抜745メートル)に登って、石窟庵と仏国寺を見に行く。石窟庵は、新羅時代の景徳王10年(751)に創建された。絵はがきHには、中央に石窟庵の本尊、左右に阿(あ)吽(うん)形の仁王像が写っている。韓国では仏像を拝む時は、仏像と対面してお祈りをする。
絵はがきIは、仏国寺を横から撮った写真である。階段は、下の階段が青雲橋で17段、上の階段が白雲橋で16段、二つ合わせて33の階段である。これを上ると、娑婆の欲界から仏の世界に入る。仏国寺の建立については諸説あるが、新羅時代の景徳王10年(751)、仏国寺を再建する時に現在の規模になった。
このとき、本堂の前に「多宝塔」と「釈迦塔」の二つの塔が建てられたが、その写真がJである。仏国寺は、1995年、世界文化遺産に登録された。青雲橋と白雲橋の階段は柵がめぐられて現在は上れない。この階段を上ると二つの塔が左右に現われるが、絵はがきJの前に見えるのが多宝塔で、後ろにあるのが釈迦塔である。釈迦塔には次のような伝説がある。
釈迦塔を作るため百済から選ばれた石工であるアサタルは、愛する妻のアサニョと離れて慶州に来た。その後、アサニョはアサタルに会いに来るが、塔を完成させるまでは会えないと言われた。塔が完成すると池に影が映ると言われて、アサニョは池の近くで夫を待つ。ところが、完成する時期になっても多宝塔は映るが釈迦塔は映らない。待ちわびた末、月の明るい夜、アサニョは影池に夫の幻影を追って入水してしまう。塔を作り終えてアサニョの待つ場所に来たアサタルは、それを聞いて悲しみ彼女の姿を求めて自らも池に入る。池に影が映った多宝塔は、別名有影塔、影が映らなかった釈迦塔は別名無影塔と呼ばれるようになった。
その後、2人の追善供養のために、池の側に影寺が建てられた。いまは境内にあった影池石仏座像だけが残っている。絵はがきKの右側に影池石仏座像が写っている。絵はがきの後姿の女性は、モデルとして撮られたのだろう。Kの写真がなぜか物悲しく感じるのは、アサニョの伝説のせいだろうか。
(文責・李 恵燕)
Posted by 管理者 at 17時01分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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